もしあなたが今、「偽善者」と言われ悩んでいるのであれば、「偽善者」と言われることを誇ってほしいと思います。
なぜなら、その人にとってあなたの行為は見逃すことのできない、大きな意味をもつ行動になっているからです。
私は小さいころから「正義のヒーロー」に憧れており、ずっと『誰かのため』に動くことが好きでした。
高校生のころ、ふと疑問に思ったことがあります。
「私が手助けすることで、その人が成長する機会を奪っているのではないだろうか?」
「これは自分が気持ちよくなるためにやってる偽善行為で、実は相手は迷惑がっているのではないだろうか?」
大学生になり、『世界の中心は自分』と思えるようになって、ようやくこの悩みはなくなりました。
それまで何年も何年も、この「偽善」というワードには悩み続けました。
もしあなたが今、自分が「偽善者ではないか?」と悩んでいるのであれば、あなたは今成長のときです。
とても苦しいとは思いますが、ぜひ自分なりの答えを見つけるまで悩み抜いてください。
悩み抜いて出した答えは、必ずあなたの心の強い支えとなってくれます。
あなたの行動が本心からだろうが、偽善からの行動だろうが、「やらない善より、やる偽善」です。
自分で悩んでいるにしても、言われて悩んでいるにしても、ただ見て非難する人よりもあなたはとても勇気のある人です。
偽善者であることを誇っちゃってもいいんです。
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偽善とは? ⇒ 「偽善」に明確な定義は無い
そもそも「偽善」とはどういったものでしょうか?
その行為が「偽善」かどうか判断するためにも、偽善について調べてみましょう。
あいまいな「偽善」
「偽善」を大辞林国語辞典で調べると、次の通り書かれています。
ぎぜん【偽善】
大辞林 第三版(三省堂) より
本心からではない、うわべだけの善行。
「本心」かどうかは、誰が決めるのでしょう?
「うわべだけ」かどうかは、誰が決めるのでしょう?
なんともフワフワした説明です。
「偽善」は視点によって変わる
「偽善」について調べればすぐに分かるのですが、偽善を定義しようとすると、次のような一言が頭に付きます。
- 「心理学では」
- 「哲学では」
- 「仏教では」
つまり「偽善」とは、世界中で興味を持たれるテーマではあるが、その定義となると『どの視点から考えるか』で変わるものということです。
「本心」「うわべだけ」を心理学に基づいて決めるか、哲学に基づいて決めるか、仏教に基づいて決めるか、それにより「偽善の定義」も変わります。
「偽善」の定義は「自分で決める」、それでいい
『「偽善」の定義はどの視点から考えるかで変わる』ということは、あなたを「偽善者」と非難した人も、その人の価値観に合わなかったから「偽善者」だと非難しているに過ぎません。
あなたも「自分の価値観」に基づいて、「偽善の定義」を『自分で決めてしまっても構わない』のです。
そして自分の行いを自ら振り返り、「自分の価値観」に相応しい行動をとったと思えるのであれば、恥じることは何もありません。
もし「自分の価値観」に反していたと思ったなら、それは反省し(必要があれば関係者にも謝罪もして)、また同じような場面に合ったときにどう行動するかを考えましょう。
「偽善」の決め方 ⇒ 「自分の価値観」を理解しよう
今の私は、誰かに親切をしても、それが「偽善」かどうか自分で悩んだりしません。
それは私自身が「自分の価値観」をある程度理解しているからです。
なお、「自分の価値観」を1つに絞る必要はありません。
私の場合、『世界の中心は自分』が根底にあり、そのほか状況に応じた価値観が無数に存在します。(「食事は質より量」とか「悩んだ時は先に思い浮かんだ方に決める」など)
これら価値観は、「自分の好きなこと・嫌いなこと」をずっとずっと考え、少しずつ出来上がっていったものです。
1日・1週間考えた程度で出来上がるものではありません。
「価値観」は簡単にはできないし、変わっていく
もしあなたが10代や20代であれば、価値観はこれから作って行くものです。
また価値観は年齢とともに変化していきます。
30代・40代・それよりもっと上の方も、「今の自分の価値観はどうなっているか?」、アップデートしてみてはいかがでしょうか。
私の中の「偽善者」(参考)
もし私が親切心から何かをして、その親切にした相手から、「余計なお世話、迷惑」と言われた場合。
それでも自分の行いを「偽善」と思うことはありません。
「余計なことをして申し訳なかった」と思うだけです。
しかし、相手に「迷惑」と言われ、「親切にしてやったのに、恩義のないやつ」と思ってしまったとき、私は自分で自分のことを「偽善者」と思います。
反対に、私が親切を受けた場合を考えます。
私が誰かに何かをしてもらったとき、実際はそれが「余計なお世話」だった場合の話です。
「余計なお世話」であることをを相手に伝えた際に、「親切にしてやったのに、恩を仇で返すのか」と逆ギレされてしまった場合、私はその相手のことを「偽善者」だと思います。
つまり、私の中の「偽善の定義」は次の通りです。
- 親切を受けた側が「親切を否定」したにも関わらず、親切をした側が「親切の見返り」を求めた場合、親切をした側は「偽善者」となる
- 親切を受けた側が「親切を否定」したにも関わらず、親切をした側が「親切の否定 を 否定」した場合、親切をした側は「偽善者」となる
- 「善」か「偽善」かは、当事者によって判断される(当事者が複数人いる場合もあり)
まとめると、私の価値観では「偽善者」とは以下の行動をする人になります。
明確に拒否した相手に親切を強要する人
人間、他人の心を推し量ることはできますが、完全に理解することはできません。
なので私は、「あの行為は偽善だったのかも」と自分で勝手に悩むことや、関係ない人からの「偽善者」という非難は気にしないことにしました。
これはあくまでも私にとっての「偽善の定義」、「偽善の価値観」ですので、賛成も反対もあると思います。
あなたにとっての「偽善」とは、具体的にどんな行為ですか?
まとめ:「偽善者」と言われることを誇ってください
『善行が非難される世の中』なんてあってたまるかと思い、そして「偽善者」という言葉に悩んでいる人の何かヒントになればと思い、この記事を書きました。
今回は「私の偽善」に基づいて話をしてきましたが、あなたの「偽善」はどのような定義でしょうか。
繰り返しとなりますが、本心からの行動だろうが、偽善からの行動だろうが、「やらない善より、やる偽善」だと思っています。
もし善行を働いた相手に「偽善者」と言われたのであれば、余計なことをしたと謝ればいいのです。
あなたは善行をして、いい気持ちになった。でも相手はそうじゃなかった。
ただそれだけです。
もしそれが気になるのであれば、相手に「どうすれば助けになれたか」聞くもよし、「あの人に助けは不要」と身を引くも、あなたが好きに判断すればいいのです。
自分の気持ちを犠牲にしてまで、善行を行う必要はありません。
理想は「自分も相手も気分がいい善行」ですが、「相手は気にせず、自分が気持ちよくなる善行」もいいと私は思っています。
だって「他人の気持ちを完全に推し量ること」なんて、できないですから。
分からないことを考えて、「自分も相手も気分がいい善行」のチャンスを逃す方がもったいないです。
「偽善者で悩めるくらい、善行しちゃってる自分」を誇っちゃいましょう!
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